第21回公判

局長はとぼけた事を言っておったが派遣はダメだ

平成15年10月10日(金)曇時々晴
雲形池
第21回鈴木宗男公判の10月10日は衆議院解散の当日。午前の証人は私設秘書給与肩代わりの当の秘書。午後からは「モザンビーク医療チーム派遣中止」当時の外務省アフリカ第2課長だった。
前回の関連があるので外務省関連を先に記してみる。

アフリカ第2課長の証言要旨

証人は平成12年2月末にニューヨークの国連代表部から転勤・帰国し、3月3日金曜日にアフリカ 第2課長に就任。引継ぎ事項に「モザンビークへの医療チーム派遣」の話があり、鈴木事務所に連絡をとった。しかしその日はスケジュールが一杯で、週明けの面会になってしまった。
6日に前任者の課長と共に鈴木議員に面会したが、冒頭から「自分がアフリカ外交に熱意を持っているのに、前日の報告とは何事だ!」と激怒し「絶対に認めない」「お前は何処から来たのか」「国連代表部の大使の教育がなっていない」等と矢継ぎ早やにまくしたて、説明しようとしても聞く耳を持って貰えなかった。たまたま来ていた上司にあたる人の助言もあり退室せざるを得なかった。
ヒヨドリジョウゴ
派遣当日の朝上司のとりなしがあり、正午少し前に詳細の説明に鈴木議員を訪ねた。資料を出して説明しようとしたところ「局長はとぼけた事を言っておったが、派遣はダメだ。絶対に認めない」と大声で怒鳴られ、頭が真っ白になってしまった。
鵯上戸(ひよどりじょうご):有毒植物といわれるが、この花の赤い果実をヒヨドリが好んで食べるのが名の由来 03年10月10日
思いもかけない展開に狼狽し、あわてて退室して役所に電話を入れた。そして、国際緊急援助室に「医療チームは待機して欲しい」旨の連絡をした。
自分としては成田空港に行くまでに何とかしたかった。参事官が鈴木議員に了解を得るべく急ぎ訪ねたが怒りは収まらなかった。

経済協力局政策課長より「後で謝ればいいから」との話があった事については整合性についてどうなるのか疑問だった。鈴木議員には職務権限はないが、アフリカ外交に大きな尽力をし外務省にとっても予算獲得等で大きな存在だったので事前の了解を取った方がいいと思った。了承を得なくても違法ではないが事実上の決済を受けようと思った。

了解を得ようと思うのはいいが、思う通りにならなかった時にどう判断し、どう決断するかが重要だ。おまけに「医療チームの派遣中止はあなたが待機の指示を撤回しなかったから、時間切れで中止になったのではないですか」との弁護人の問いに「部下から聞いた話では、中止決定は国際緊急援助室が行ったとの事だった」との証言には開いた口がふさがらなかった。

秘書給与肩代わりの証言要旨

証人は現在3期目の網走市議。島田建設の初代社長とは祖父の代からの家族ぐるみの付き合いで昭和59年より島田建設の子会社の北見舗道に勤務。鈴木宗男とは昭和50年頃、中川議員の秘書時代からの知り合いで58年12月の初当選の時からずーっと支持。
59年半ばより初代社長の勧めで北見舗道の社員のまま北海道道議の秘書となる。勤務内容は会合の代理出席、支持者拡大等でそれらの秘書業務をやりながら島田建設、北見舗道の従業員の困り事などに対処して欲しいとのことだった。昭和60年11月頃道議との意見対立で辞職。

その後鈴木議員の秘書になりたいと思い、2代目社長に依頼し、昭和61年3月から平成2年11月まで約4年間私設秘書を務める。給料は今まで通り北見舗道から支給された。網走市議会議員に出ないかとの話があり、鈴木宗男網走事務所を辞職。その後も平成14年3月31日まで島田建設から給料が支払われていた。

秘書の給与肩代わりとの新聞報道を見て鈴木宗男とはなんと押しの太い、議員の風上にも置けない人間だと思ったが今日の公判を聞いて支持者側からの持込だった事を知った。
でもよく考えると押し付けでないだけに余計根深いものがある。日本の政治風土は民主政治には程遠いものがあるのは分かっていたが、モチコミ秘書もあったとは驚きだ。そして何より問題なのはこれが島田建設だけの特殊性でないことだ。
鈴木議員と支持者は完全なるギブアンドテイクで結びついている。考えてみれば当たり前の事だが、当たり前すぎて普段は見逃されどんどんエスカレートしていく。
鈴木事務所への訪問者がずば抜けて多かったのはその何よりの証拠なのだろう。